2008年9月20日
発掘調査の成果を一般に公開することを目的として、発掘調査報告会を萩市三見公民館で開催しました。調査成果の一般公開としては、発掘調査の現場で行う現地説明会がありますが、今回は現場周辺工事による安全性や、現地へのアクセス等を考慮して、発掘調査報告会というスタイルをとりました。
当日は約30名の方が参加されました。報告会は、まずスライドを映写して、発掘調査の進め方や発見された主な遺構や遺物を紹介しました。その後実際に出土した遺物を展示し、その解説を行いました。参加者の多くは遺跡のある三見の歴史に関心のある方が多く、興味を持って聞いておれらました。また出土した「ほうろく」については、三見特産とされることから、熱心に観察されていました。
2008年9月 9日
写真上は1号窯の煙出し部分の断ち割りの様子です。基礎に煉瓦を組み、その上に土管を設置し、さらに石積みをして煙道としていました。これに土管を利用した煙突がつくものとみられます。これにより1号窯の構造がほぼ明らかになりました。
2号窯は、その前面を拡張して掘り下げました。ここからも街道の側溝が検出されたことから、街道と窯の位置関係がよくわかります(写真下)。街道そばで煙をあげていた「ほうろく窯」の当時の様子が見て取れるのではないでしょうか。
以上、1号窯、2号窯の調査を終え、「三見ほうろく窯跡・ほうろく茶屋跡」の現地調査はすべて完了いたしました。調査中は、地元ならびに関係機関にはご協力いただき、まことにありがとうございました。今後は資料整理を進めて、調査報告書の作成にとりかかる予定です。
2008年8月27日
2号窯は、江戸時代のほうろくなどの破片が出土したことから、文献にある三見中山の「ほうろく窯」であることがわかりました。残念ながら窯の残存状況は良くなく、天井部や壁は残っていませんでした。そのため全体像が明らかでないところもありますが、おおむね大きさは長さ約2.5~3m、幅約1.5mほどであり、斜面を利用してつくられた小型の登り窯であるとみられます。床面には窯内を仕切る石列がありました。窯の周辺には覆い屋を支える柱を建てた穴も発見されました。
出土遺物にはほうろく、七輪などの破片があることから、「ほうろく窯」の名のとおりほうろくを中心にその他の土器を焼成した素焼き窯であるとみられます。
2008年8月20日
1号窯の様子です。1号窯は炭焼き窯であることがわかりました。天井部は崩落して残っていませんでしたが、窯内部の大きさは幅2.5m、奥行き2.9mで、残存する高さは約1mほどです。床面は炭の付着で黒色に堅く焼けしまっていました。窯の西側には焚き口と、製品を出し入れする出入り口が別々に設けられていました。窯床には排水溝が埋めてあり、出入り口の下を通って、窯外へ水分を排出する構造です。奥壁には煙出しのための煙道口があり、窯外には土管を利用した煙突の施設が残っていました。
この窯の時期は近代以降の炭焼き窯であるとみられます。
2008年8月11日
「三見ほうろく窯跡」の調査です。調査前は1基と思われていましたが、遺構検出の結果、2基の窯跡が発見されました(写真)。写真左が1号窯、右が2号窯です。当初1号窯の一部が地表面に観察されたため、これをほうろく窯跡と考えていましたが、調査の結果、この窯は近代以降の炭焼き窯であることが判明しました。
2号窯は1号窯の南に発見されました。小型の登り窯で、ここからは江戸時代のほうろく、七輪の破片などが出土したことから、2号窯が絵図に残る江戸時代の「ほうろく窯」であると考えられます。
2基の窯は、土層観察の結果、2号窯が使用されなくなった後に、その一部を埋めて整地し、1号窯が築かれたことが明らかとなりました。
2008年8月 6日
今回の調査では、ほうろく茶屋跡の前を通る赤間関街道の一部も調査対象となりました。表土を除去したところ、幅20~30㎝、深さ5~10㎝の溝状遺構が2条確認されました。近隣の街道跡の規模から判断して、道路の側溝と考えてよいでしょう。この側溝に挟まれた部分が道路(街道)であり、幅は約2m、当時の1間の長さであったとみられます。なお路面には石敷きや整地土などは確認されませんでした。
近世街道の発掘調査は県内では少なく、当時の道路施設や規模を考えるうえでひとつの資料となるとみられます。
2008年7月18日
西側斜面から出土した近世陶磁器の特徴としては、染付磁器より萩焼陶器やほうろくなどの土器の出土数が多いことです。さらに土器では三見産とみられるほうろくの破片が多く出土しています。これらは茶屋跡で使用されたものばかりでなく、隣接する「ほうろく窯跡」から廃棄されたものもあるかもしれません。またほうろく以外にも七輪などの土製容器片も出土数が多いことから、窯跡ではほうろく以外の製品も焼成していたことも考えられます。このことは今後の窯跡調査によって明らかになるでしょう。
陶磁器以外では、今までのところ火打ち石、寛永通宝、鉄製品、銅製品、土人形などが出土しています。これらの遺物は、染付磁器からみて18世紀後半から幕末のものと考えられ、茶屋跡が営まれた時期を考えるヒントとなります。
2008年7月11日
ほうろく茶屋跡がある丘陵の西側斜面の調査です。この急斜面にトレンチを設定し掘り下げたところ、多くの近世陶磁器が出土しました。これらは堆積状況から判断して、斜面上位の茶屋跡から廃棄されたものや、斜面の崩落などにより流れ落ちたものであるとみられます。斜面の広範囲に遺物が分布するとみられるので、トレンチの範囲を広げて面的に掘り下げました(写真)。斜面の裾からはトレンチの所見のとおり、多量の近世陶磁器が掘り出されました。
2008年6月30日
ほうろく茶屋跡の遺構検出途中の写真です。街道南側の平坦面のうち、遺構は東半分に認められることから、この部分に茶屋の施設があったとみられます。検出した遺構は、柱穴、溝状遺構、土坑などです。礎石等の建物基礎は確認されていませんので、茶屋の建物は掘立柱で、瓦は葺いていなかった可能性があります。またもともとの傾斜面に地山土を客土して整地し、平坦面を広げていることもわかりました。
2008年6月25日
作業の合間の勉強会です。作業員さんたちは今回が初めての発掘調査作業ということで、調査の進め方、掘り込みの注意点などをその時々で説明しています。また特徴のある遺物が出土したら、その場で即席の勉強会をはじめます。今回は江戸時代の貨幣である「寛永通宝」が出土したので、お題は「お金のはなし」です。みなさんお金の話には興味津々で、(いつになく?)熱心に聞いていましたね。
2008年6月18日
発掘調査は、ほうろく茶屋跡から開始しました。まず対象地にトレンチ(試掘溝)を設定し、掘り下げます。これにより遺構面のある地山までの深さや、遺構の広がりを確認しました。こののち、人力で調査範囲全体の表土除去にかかりました。20~30㎝の厚みで表土が堆積していましたが、竹林であったため、多くの竹の根が地中に広がっており、作業員さんもこれを掘り出すのには大変な苦労でした。
2008年6月13日
今回の調査のきっかけとなったのは、一つの絵図でした。「當嶋宰判鑓板峠ヨリ玉江坂迄道松絵図」(山口県文書館所蔵)は、街道脇にある松の実態調査をおこなった時の絵図とみられ、その中に三見中山に「ほうろく釜」と「ほうろく茶屋」の記述がみられます。「ほうろく釜」には窯を覆う長い屋根が描かれています。
実際に推定される現地にいってみますと、墓地の近くに方形の落ち込みがあり、周辺にはほうろくの破片や窯の壁とみられる破片が落ちていました。地元でも「ほうろく窯跡」として知られている場所です。さらに街道を挟んで南側には丘陵の先端を掘削して平坦にした更地があり、これがほうろく茶屋のあったところと考えられました。
また1845年の『防長風土注進案』には「中山組」に「ほふろくや 家壱軒」の記述があり、防長の名産物を列記した『御両国珎名産物』には「ほうろく 阿武郡 中山」と書かれています。これらのことから、今回調査する窯跡は三見特産のほうろくを焼成した窯跡と考えられます。
2008年6月 9日
萩市三見にあります「三見ほうろく窯跡・ほうろく茶屋跡」の発掘調査が始まりました。この調査は一般国道191号改築(萩・三隅道路)工事に伴うもので、国土交通省の委託を受けて当センターが実施するものです。遺跡は、当時の赤間関街道そばに位置しており、江戸時代に三見で生産されていたほうろく(豆や茶を煎るために使用された土製の容器)を焼成した窯跡や、街道筋の茶屋跡がどのようなものであったかが明らかになるでしょう。江戸時代の生産や交通を考えるうえで良好な資料が得られるものと期待されます。